神保町の美容院Berry(ベリー)の歴史

第1章 金成家と神保町の関わり

第1章 金成家と神保町の関わり

まずはこの街と全く関わりのない方々の為に簡単に神保町の由来と歴史を。

「神田神保町(かんだじんぼうちょう)」と読みます。
神田神保町は古本屋街として知られています。(ちなみに神田と呼ばれる地域は、日本橋川と神田川とに挟まれた地域に外神田(秋葉原)を加えた全体を指し、江戸っ子とは狭義には「三代続いて神田で生まれた人」とされるほどの江戸の下町を代表する土地です。)

かつてこの界隈は北神保町と呼ばれていました。「神保」という町名は、元禄年間(1688~1704)、現在の神田神保町二丁目内に神保長治という旗本が住んでいたことに由来します。
江戸時代には武家の屋敷が集まっていたこの土地に、「北神保町」という町名が誕生したのは明治5年(1872)のことです。この年、周辺には南神保町、表神保町、裏神保町なども誕生しました。

明治以降、神田・お茶の水界隈には学校が立ち並ぶようになりました。北神保町には明治43年(1910)、東洋家政女学校が誕生しています。当時「岸辺のおじさん」「子どもの友だち」として親しまれた教育者・岸辺福雄が創立した学校で、普通科二年と高等科一年の教育課程がありました。ちなみに、この学校で毎年催されていた愛全地蔵を祀る祭礼は、いまも地域の人々に受け継がれております。

北神保町で忘れてはならないのが、明治23年(1890)に開設した神保院です。破傷風菌の純粋培養で有名な北里柴三郎博士から指導を受け、感染症の患者を重点的に受け入れることで知られた病院でした。

江戸時代、武家の屋敷が中心だったこの一帯は、明治以降、教育と医療の町に生まれ変わり、バブル直前までは庶民的な路地社会も見られましたが、平成の今日まで年々様変わりをしながら発展してきました。
駅名などは、単に「神保町」となっていますが、本来は「神田神保町」と言わないと納まりが悪いみたいで、最近の「池尻大橋」とか「白銀高輪」みたいな、別々の町名を併記したような駅名とは異なり、多少長くても「神田神保町」とした方が良いとの意見があちこちで挙がっております。

と、
このような歴史のある街に金成家が関わる事になったのは、祖父と祖母が福島県から上京した今から75年以上前の事です、それぞれの家庭の次男、次女として生まれたので、その当時は長男のみが相続するのが当たり前の世の中、
お互いの実家の農家には譲り受ける土地は一切ありません。
「東京に出て一旗揚げるしかない。」との必死の覚悟だったのでしょう。

そして辿り着いたのがこの街。
祖父、祖母はこの街で、「金成油店」を創業し、日本石油(現ENEOS 新日本石油)から機械油を卸させて貰っての販売
から初まりました。

その後共同石油(現JOMO)と「特約店契約」を結び、4人生まれた息子達の3人がこのお店を守り、長男は残念ながらこの世を去ってしまいましたが、次男である私の父親、その弟の3男は現在も元気良くこの街で働いております。

(2006年2月記)